I Advance Masked










act-1



顎先の髭が、どうしても抜けない。


皮膚の中に潜り込んで剃刀の刃を逃れていたらしいヒネクレモノが一本、小さいながらも毅然とした自己主張で八戒を悩ませ続けていた。





元より髭の濃い方ではないから、こういうことは滅多にない。
そもそも、悟浄が悪いのだ。

「お前にヒゲは、似合わないよなあ。」

ただ剃るのを怠けていただけの癖に、図らずも好い具合に伸びた無精髭を鏡に映しながら、さも自慢げにそんなことを言うものだから。

「そういえば八戒って、ヒゲ伸びんの自体遅くねえ?」
「あははっ、そう・・・ですね。油断してると爪とか耳とかは、すぐ伸びてきちゃうんですけどねー。」
「いいよな〜手入れが楽で。俺なんてもう大変よ、髪もヒゲも伸び放題だから。やっぱホラ、あれでしょ?男性ホルモン過剰ってやつ?」

髪が伸びるのは女性ホルモンでしょ。
それじゃなんです、僕の男性ホルモンが欠如しているとでも言いたいんですか?アナタは。

ヒトの気も知らずイイ気になって捲し立てる同居人を、八戒は心の中で毒づいた。
自分たちの夜の生活をちょっと冷静になって振り返ってみれば、いくら悟浄でもそんな不用意な発言をするつもりがないこと位、すぐに判りそうなものだったのだが。

「ほら悟浄。あんまり喋ってると、剃刀が横滑りしますよ?」

表面上は平静を装いつつも、何気なく言われた一言が、その日に限ってどうしてそんなに気に障ったのか。
理由なんぞは解らなかったが、とにもかくにも腹が立って、気になって。

かくして八戒は、自分でも似合わないだろうと一度も蓄えたことのなかった髭を、わざわざ伸ばしてみようと決心するに至ったのである。





チャンスは案外早く到来した。
三蔵に所用を頼まれた悟浄が、数日間家を空けることになったからだ。

勿論2人が同時に依頼を受けることもあるのだが、最近はこうして各自単体で借り出されることが多くなっている。
この間にこっそり変貌を遂げて(それも妖怪変化することなく)、悟浄を驚かせてやることにしよう。


元来潔癖性のこの男にとって、一日でも髭を当たらずにおくのは正直、不快以外のなにものでもない。
ましてやポツポツとまばらにしか生えてこない髭は酷く遠慮がちで、その面相はここ数日、何とも悲惨な状態だったのだが・・・八戒は耐えた。

そうして一週間も辛抱した頃には、いかにお粗末な髭といえども、口元にある程度の陰影を形づくる程度には生え揃ってくる。
数日ぶりに手にした剃刀で、八戒は慎重にその形を整えにかかったのだが。

はたして漸く仕上がったそれは・・・ 傍目にも気の毒になってしまうほど、およそ彼の女顔には似つかわしい筈もなく。
鏡の中の自分と改めて眼が合ったその瞬間、八戒はやっとの思いで伸ばしてきた髭を、思わず一気に剃り落としてしまった。


そんな訳で結局、何日ぶりかでねぐらへ戻ってきた悟浄を、八戒は今までとまるっきり変わらぬ顔で迎えることとなる。
自分の軽々な発言の所以で、同居人が留守中どれほどの悪戦苦闘を繰り広げていたかなど、悟浄には知るよしもない。

だが当の八戒は、未だ思わぬ余波に悩まされ続けていた。
顎先の剃り残しが、どう頑張っても抜けてくれないのだ。

慌てて剃り落としたせいだろう、どうにかして刃先を擦り抜けてしまった短い髭が一本、まるで場違いな自分の立場にふてくされるかのように、頑としてその存在を誇示し続けている。
鏡を覗いても殆ど判らない1ミリにも満たぬ代物なのだが、顎の突端に感じる違和感は、やはり無視できるものではなかった。

かといってわざわざ部屋中引っ掻き回して、殆ど使ったことのない毛抜きを探し出すのも面倒だし。

だいいち今は、食事の支度の真っ最中だ。
久しぶりにイタリアンが食いたいと、フレッシュバジルとフルーツトマトをわざわざ自分で背負って帰った悟浄が、腹を空かして待っているのだ。

更には追い打ちをかけるように、好戦的なヒップホップが大音響で畳みかけてくるものだから、イライラはますます募るばかり。
Lose Yourself?煩いなあ。放っておいて下さいよ。

そんな心情とは裏腹に、沸々と湧き上がるパスタ鍋を見守る八戒の姿は、どうやら一見、したり顔で顎を撫でながら、自信たっぷりに微妙な茹で加減を計算しているような風情にみえるらしい。
モッツァレラのフライを肴に、冷酒で一足早く上機嫌になっている悟浄が、暢気にこう言い放って拍車をかける。

「ん〜いい香り。期待してるぜ、八戒センセイ。」

本当は中指と親指でつまみ出した髭を、なんとか引っこ抜こうと悪戦苦闘しているだけなんですけどね。
鍋の中味をぞんざいに箸で掻き回す。そろそろ爪の先が痛くなってきた。

「・・・あ」

いつのまにやら、茹で時間を1分ほどオーバーしている。
慌てて中味をザルに空けた。濛々とした湯気と共に、熱い飛沫が飛んできて目に入った。


やっぱり、茹ですぎてしまった。伸びたパスタなんて最低だ。




まったく。こんなちっぽけなアゴ髭ひとつで。




next

[PR]動画