祝福されし乙女




-1-



悲嘆というよりも悔恨と憤怒のために、流しきった涙も漸く乾いた頃。

彼女は妙に冴えきった気分で、自分の送り込まれた世界を改めて見回してみた。
むせ返るほど薫り高い白百合が視界の続く限りに咲き乱れ、その薄黄色の花弁達は、陽の下で競い合うように光り輝いている。

私てっきり、地獄に堕ちるのかと思っていたけれど。
意外と快適な所でよかったわ。
それに何より・・・下界の様子がよく見える。

彼女は無造作に手折った百合の一本を胸に抱き、花園の突端を目指して歩き出した。
歩みを進めるのに従って、緩く編まれた腰まで届く髪が、蜂蜜を流したように彼女の背中で艶々と揺れる。

そこは天界と下界とを隔てる場所だった。
延々と続く黄金の欄干に身体を預けると、彼女は落ちんばかりに身を乗り出して、下界の様子を窺ってみる。
夕べの凪に静まり返る海よりも深いその眼差しは、遠く離れた愛しい男のどんな様子をも、つぶさに見通すことが出来た。


初めのうち彼は思惑通り、絶望に狂って執拗に自らを痛めつける行いを繰り返しては、ほどなく彼女の後を追って、こちらへやってくるかに思えた。

それが予期せぬ者達との出逢いによって少しずつ自我を取り戻し、彼等と旅路を共にしていくにつれ、その碧緑の双眸には彼女の知っている彼特有の、一見穏やかそうでいて決して意思を曲げることをしない、密やかな自信を覗かせる強い光が戻りつつあった。

それでも時折はジープの片隅で、宵闇に紛れて彼女の贈った懐中時計を取り出しては、そっと握りしめて項垂れていることも少なくない。
そんな姿を見るにつけ、彼女は言い知れぬ不安と密やかな安堵との入り交じった、複雑な感情に苛まれるのだった。

過去の呪縛から逃れて前進して欲しいと願う、姉としての感情と。
自分に焦がれ一刻も早く追って来て欲しいと乞う、女としての感情と。


地上の恋人だけに心を奪われた彼女は、常に物陰から自分を見守る、見慣れた銀髪の姿があることに気付いていなかった。
白い西洋蝋燭のように、何処か掴み所のない揺らめきを孕んだ妖しの者は、ふと下界から戻された彼女の視線に、あの男と全く同じ色が湛えられていることに気付いて、はっと息を呑む。

懐から麻雀牌を取り出すと、銀髪の魔物は何かを思い詰めるかのように、一頻りそれを見つめていた。



-2-




天界はのどかな昼下がり。
眠気を誘う蜜蜂の羽音だけが微かに響き渡る花園で、今日も彼女は地上に残した恋人を待ち侘びている。

何日も何日も、彼女は飽くこともなく下界を眺め続けた。
もたれ掛かった黄金の欄干は、その胸ですっかり温められてしまっている。


彼女の片割れだった男は、今日も西へ向かってジープを走らせていた。

後ろの席ではいつものように、陽気な目をした紅い長髪の男と金眼の少年とが悪ふざけを始め、助手席では高貴な姿の金髪の美丈夫が、不機嫌そうに煙草を燻らしている。

彼は時折辛辣な軽口を叩きながら、そんな仲間達に笑顔を投げていた。
かつて双子の姉に向けられていたそれとは、まったく違った種類の笑顔だった。

彼女は小さな溜息を一つ吐いたが、その眼を下界から逸らすことはしなかった。


妖しの者は、そっと彼女に声をかけた。
「・・・花喃。」
「今日も、いいお天気ね。」

一瞬だけこちらを見やって応えると、彼女は再び地上に視線を預けた。
銀髪の魔物も傍らに並んで、静かに現世を見下ろした。

『違いますよ 僕は 猪八戒です』
男の口から直接聴かされたあの言葉を、未だ彼女に伝えられぬまま。

欄干に置かれた美しい手に、もう一人の蒼白い手がそっと重ねられた。
困ったように微笑みながらも、彼女はその手を引き戻すことをしなかった。





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