Beyond the door there's peace I'm sure And I know there'll be no more tears in heaven... ( Tears in Heaven by Eric Clapton '93 )
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「誕生日?僕には意味のないことですよ。」 僅かに開いた窓の隙間から、咲きかけの金木犀の香りが漂ってくる初秋の宵の口。 何か欲しいものはないかと遠慮がちに訊ねる悟浄を、八戒はいつもと変わらぬ笑顔で軽く受け流した。
そもそも孤児ですから、本当の誕生日なのかだって怪しいですし。 尤も子供の家に居た頃には、ちょっと嬉しい日でしたけどね。 食卓にはおかずが一品増えたし、一年間で成長した足に合うサイズの靴を、やっと買って貰えましたから、あははっ。
「僕にとっては、貴方と出会った日の方がよっぽど大切です。」 さらりとそう言って流し台の前に立つ八戒の背中を見やりながら、悟浄はさてどうしたものかと頭を悩ませた。
死なせてしまった双子の姉を嫌でも思い出させる誕生日が、この男にとってむしろ忘れたい日だということは解っているつもりだ。 確かに今の彼には、悟浄の許で傷を癒し、八戒の名を冠して新たな一歩を踏み出した日の方が、よほど重要には違いない。
でも、だからこそ、初めて2人で一緒に迎える明日の誕生日のために、悟浄は何かしてやりたくて仕方がなかった。 お前がこの日生まれたからこそ、俺達は出会えた。 そのことが俺は嬉しいんだと、伝えてやりたくてたまらなかったのだ。
だけどあいつが喜ぶことって何か、よくわかんねえから。
せめて負担を軽くしてやろうと、この一週間は脱いだ下着もきちんと洗濯機に入れてるし、使った食器は言われる前にちゃんと流しに持っていってるさ。 いい加減にうずうずしてるけど、夜遅くまで出歩いたりもしてない。 勿論、空き缶を灰皿代わりになんてするもんか。
たまには俺が、夜食にフレンチトーストでも作ってやるよ。 さっきだって気を利かして、そう言ったつもりだったのにさ。 ミルクに卵の殻が入ったり、蜂蜜を混ぜ込む時にハネを飛ばしたり、バターの塊をシャツに落としたり、フライパンを焦がしすぎたりで、結果は惨憺たる有様だった。
それでも八戒は引きつった笑顔で、「美味しいですよ」と皿の上の物を全部平らげてくれた。 だが食後の紅茶もそこそこに さっさと立って洗い物を始めたところをみると、どうやらキッチンの惨状には我慢ならなかったんだろう。
気を使ってくれるのは嬉しいけれど・・・かえって迷惑なんですよね、慣れないことをされると。 手際よく洗って籠の中に並べた食器を、まだ全然水の切れないうちから、悟浄が片っ端から手にとる様子を横目で見て、八戒は小さな溜息をついた。
そんなことをしたら、すぐに布巾がびしょびしょになってしまうでしょう? ポトポトと垂れる滴が、拭いたばかりのカップの底に溜まっていくのをみた瞬間、抑え続けていた小言が思わず口を衝いて出た。 「いいですよもう、あとは僕がやりますから!悟浄は戸棚に仕舞って下さい。」
・・・ついつい、強く言いすぎてしまいました。 怒ります・・・よね?せっかく気を使ってくれているというのに。 それなのに悟浄ときたら、物凄く決まりの悪そうな顔をして。 「ごめん。俺・・・いっつもお前にフォローして貰ってばっかりだよな。」
不意に悟浄に背中を向けると、八戒は拳でごしごしと眼の辺りを擦った。
「どした八戒?・・・眼にゴミでも入ったか?」 「滴が飛んだんですよ。貴方が布巾をボタボタ濡らして食器を拭くから!」 俯いた瞳が、微かに赤い。 「・・・おい?」
台布巾で猛然とガスレンジを拭き始めながら、八戒がぞんざいに言った。 「何てことありませんって!・・・さ、全部拭き終わりました。ちゃんと大きい皿を下にして仕舞って下さいねっ。僕はお先に風呂に入らせて貰います。」
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手早く髪と身体を洗うと、八戒は頭からシャワーを被った。 勢いよく迸る湯が、頬の涙を温かく洗い流す。 だけど、どうしたというのだろう? あとからあとから溢れ出る涙が、何故だか全然止まらなかった。
悟浄、そんな顔して謝らないで下さい。 僕にそんなに気を使わないで下さい。
解ってますよ、貴方の気持ちは。嬉しいんですよ、本当は。 何処へ一緒に出かけるよりも、何をプレゼントして貰うよりも。 なのに素直に礼が言えなくて、懸命に接してくれる貴方につい当たってしまう自分に、腹が立ったんです。
八戒は浴槽に身体を浸すと、拭いきれない涙を自分自身からも誤魔化すため、ぶくぶくと湯舟の中に深く潜った。 足を縮めて底に背を着けると、暫くじっと寝ころぶようにして水の中の音に耳を澄ます。 勢いよく水面から顔を出すと、ちょうど浴室に入ってきた悟浄と視線が合った。 子供っぽい所を見られたものだと、余計に決まりが悪くなる。 「・・・俺も入っていい?」 「ええ、どうぞ。」 当てつけがましく身体をずらすと、八戒は同居人のために僅かな隙間を作った。
悪戯を見付かってこっぴどく叱られた幼い兄弟のように、大の男が並んで2人、眼の前の壁に残った泡の塊を、ただじっと見つめている。 泡は小さくなりながら、ゆっくりと壁をつたって滑り下りると、やがて消えた。 「なぁ・・・まだ怒ってんの?」 「・・・別に怒ってなんかいないです。」
そんな訳、ないじゃないですか。嬉しかったんですよ・・・本当は。
ふいにザバンと大きな水音を立てて立ち上がると、八戒は湯舟を跨いだ。 「・・・そこに座って下さい。」 名前を呼ぶことさえ、今日は何だか照れくさい。 悟浄もそろそろと浴槽を出ると、洗い場の小さな椅子の上に、居心地悪そうに腰を落ち着けた。
いつも悟浄がボディソープのボトルに掛けてあるヘアゴムを手に取ると、八戒は彼の紅い髪を首の後ろで束ねてやった。 もう一度出窓のボトルに手を伸ばして、ポンプを一押しする。 忍び込み始めた外気の冷たさを少しだけ吸い込んだ液体が、ひんやりと掌に心地よかった。 湿らせたスポンジにそれを採ると、軽く揉んで泡立ててやる。
八戒は丁寧に、悟浄の背中を洗い始めた。 思わせぶりな様子は何一つ見せず、心を込めてただひたすらに、その身体を綺麗にしてやることに専念する。 悟浄もやがて気持ちよさそうに、肩の力を抜いてじっと目を閉じた。 思い切りシャワーのハンドルを捻って、八戒は一気に身体中の泡を洗い流してやった。
「・・・悟浄。ありがとう。」 「何?聞こえねぇよ、シャワーの音が大きくて。」 「・・・いえ、いいんです。」 「え、何だって?」 「いいんです、なんでもありません!」
何故だか今日はどうしても、感謝の一言が伝えられないけれど。 これからは、この人の前でだけは、もっと素直な自分で居よう。 そう・・・きっと、明日からは。
壁に掛かった小さな防水時計の針が、カチッと音を立てて一つに重なった。
八戒が柄にもなくおずおずと、悟浄の広い背中から胸元へ両手を滑らせた。 「・・・ばーか。」 子供をあやす父親のように、悟浄がポンポンとその腕を叩く。 心の中の蟠りが泡のように流れ去り、八戒は後ろから思いきり悟浄を抱きしめた。
八戒は紅い髪の中に顔を埋めて、微かな煙草とボディソープの入り混じった悟浄の匂いを深く吸い込んだ。
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はい、お話はここまで(笑)。 ここまでなんです! あとは邪魔しないで、2人きりにしてやりましょうよ。
・・・あの人が泣くなんて考えられないと、自分でも思うのですが(--;) いつも笑顔で本心を明かさない八戒も、悟浄にだけは拗ねた顔や涙をみせることがあってもいいんじゃないのか。 何よりもそうあって欲しいなという個人的な願望が前からありましたもので、 あえてこういう偽者な2人を登場させてみた次第です。 「こんなのねぇよ」と仰る貴女。・・・読まなかったことにして下さい(^^;)
焔PCの余波でファイルをふっ飛ばし、出だしから思い出しつつ何とか書き直しました(ToT) もうちょっと気の利いた台詞があったはずなんだけど〜。なんて言い訳ですね、所詮は。
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